暴力のパズル 核戦略入門
公開日: 2025-05-30
¥300(税抜き)
税込み: ¥330
内容紹介
――“抑止”の論理を解けば、世界の動きが見えてくる―― ■ なぜ「撃たせない力」は成り立つのか 核兵器を「持つ・持たない」だけで語るのは半分だけの物語です。本書が焦点を当てるのは、その背後を支える抑止理論・ゲーム理論・戦略思考のしくみ。 トルーマンとスターリンを動かした 相互確証破壊(MAD) の計算式 ケネディとフルシチョフが危機の崖っぷちで交わした “シグナル”と“コミットメント” ハーマン・カーンが描いた 〈44段のエスカレーション・ラダー〉 の読み解き方 難解とされる概念を、歴史の現場エピソードと合わせて“もしあなたが当事者なら?”という平易な問いかけで解説します。 ■ ゲーム理論で読み解く現代の核パワーゲーム 囚人のジレンマからチキンゲーム、そして多段階シグナリングまで――数式を多用せず図解と言葉だけでシナリオを追体験。中国・インド・パキスタンの“三つ巴”や北朝鮮の“弱者の最適戦略”など、リアルな対立をモデル化し、どこで誤算が起きるかを可視化しました。 ■ 技術と心理が交差する最前線 ICBM/SLBM/ABM の進化、AI がもたらす発射判断の“時間圧縮”、そして核恫喝が市民世論を揺さぶるメカニズム――本書はハード(兵器体系)とソフト(人間心理)を同一フレームで扱います。 「発射ボタンまで8分」の指揮統制をレジリエンス安全保障の視点で再設計 テロやサイバー攻撃が“抑止の裏口”を突くリスクと防衛策 数を減らすだけでは終わらない リスク削減=ゲーム・ルールの改訂 の方法 ■ 学びを行動へ 終章では〈協調的安全保障〉〈人間の安全保障〉〈レジリエンス型防衛〉など、抑止に代わる選択肢を整理し、ニュースの読み解き方や地域・学校で議論を深めるための問いかけ例を提示。知識を「考える・語る・備える」力へ転換できる実践的ヒントをまとめました。 歴史の裏側を動かしてきた〈戦略のロジック〉を、ニュースの先読みと自分の意思決定に転用できる― 『暴力のパズル 核戦略入門』は、核抑止の核心を手ざわりのある言葉で解きほぐし、読者一人ひとりが世界の“プレイヤー”として次の一手を考えるためのガイドブックです。
本文サンプル
序章 暴力というパズルを解く――核戦略の「入門書」を手に取るあなたへ
人類史は、暴力と創造、破壊と再生の絶え間ない交錯によって織り上げられてきました。石と棍棒から鉄剣、火薬、戦車、ミサイルへと続く武器の系譜は、私たちの社会が抱える矛盾の「影」とも言えます。そして 1945 年 7 月 16 日、ニューメキシコ州アラモゴード近郊の砂漠で炸裂したトリニティ実験のまばゆい閃光は、その影を決定的に変形させました。それは、暴力の尺度を人類文明そのものの生死へと一挙に拡大し、政治・倫理・哲学の問いを根底から組み替える出来事でした。
本書『暴力のパズル――核戦略入門』は、核兵器という究極の暴力装置が私たちの日常や将来にどのような影を落としているのか、その仕組みと論理を「パズルを解く」ようにひとつひとつ丁寧に紐解こうとする試みです。「入門」と銘打ったのは、専門家だけではなく、中高生からビジネスパーソン、家庭の主婦・主夫、大学で文系を専攻している読者まで、核の時代を生きるすべての人が対象だからです。核戦略はしばしば「専門家の閉ざされた議論」と見なされがちですが、ボタンが押されるか否かは、私たち一人ひとりの政治的選択と無関係ではいられません。
1 暴力と政治――歴史を貫く二つの糸
1.1 人間はなぜ暴力を行使するのか
暴力は〈自然な衝動〉と〈社会的な道具〉の両面をもつ。生物学的には、ヒトを含む脊椎動物に攻撃本能が観察される。だが、ほとんどの霊長類は個体間の力量差が小さいため、集団内で頻繁に血みどろの争いを起こすと種そのものが疲弊し、繁殖成功率も落ちる。したがって多くの群れでは、にらみ合い・威嚇・声量競争など“費用の低い”手段で序列を決め、実戦闘は回避される傾向が強い。
ところが、言語で高度に協調できる人類は「暴力を後払いにする仕組み」を発明した。約1万年前の農耕社会の成立以後、食糧の surplus(剰余分)を蓄積し、それを略奪されまいとする防衛意識が芽生える。同時に、他集団の蓄えを一挙に奪う誘惑も生まれる。ゆえに暴力は、生存競争の単純な延長ではなく、余剰物資・名誉・信仰など〈抽象的価値〉をめぐる政治的手段へと質的転換した。
1.2 武器と社会変容の相互作用
石器→青銅器→鉄器の順に硬度と加工性が向上すると、武器は長刀・騎兵用の槍・装甲盾へと多様化し、支配階級と被支配階級の区分が深まった。
とりわけ火薬は決定的だった。14 世紀、西ヨーロッパの都市国家は石壁と堀で防御を固めていたが、黒色火薬を詰めた大砲が壁を破壊しはじめた結果、防御側は星型要塞や厚い傾斜壁を採用し、建設費を賄うための恒常課税制度が整えられた。武器の進化が徴税機構と行政官僚制を誘発し、近代国家の胚芽となったのである。
19 世紀後半、後装式ライフルと有線電信が同時に普及すると、「指揮は背後の司令部、殺傷は最前線」という役割分担が生まれた。総力戦を準備する国家は鉄道網を張り巡らし、数百万人規模の徴兵と物資輸送を平時から計画する体制へ移行した。軍事技術と社会制度は相互に引っ張り合い、暴力の射程を拡大・専門化していく。
1.3 国民国家と暴力の「国有化」
フランス革命後に確立した徴兵制は、軍を国王の私兵ではなく「国民自身の延長」と位置づけた。血縁や封建的忠誠ではなく、国旗や憲法といった象徴を共有する想像上の共同体が、戦争動員の正当性を支えたのである。
一方、1807 年の大陸封鎖令や 1914 年の海上封鎖のように、敵国経済を麻痺させる戦略が採られると、戦場は前線に留まらず、工場、港、農地、さらには民間人の生活圏まで侵食した。暴力が「公共財」と化し、徴税と行政のルートで大量の資源が軍事へ割り当てられるほど、国家は暴力行使の独占権(マックス・ウェーバー)が強化される。
1.4 20 世紀の総力戦と大量破壊
第一次世界大戦では、線形陣地が数百キロに及ぶ塹壕線となり、塹壕砲と毒ガスが反復使用された。これは、産業革命で誕生した繊維・化学・鉄鋼企業が〈軍需〉へ組み込まれた初の大規模事例であり、結果として 1,600 万人以上の死者を出した。
第二次世界大戦では航空機とレーダーが支配権を競い、ロンドン大空襲・ドレスデン爆撃・東京大空襲など、都市中心部が標的となった。工場爆撃は生産ラインを破壊し、市民爆撃は労働力と士気を削ぎ、物資輸送路を寸断した。暴力はついに、交戦国のあらゆる社会構造を同時多発的に破壊し得る“総合的システム”へと完成した。
その帰結が 1945 年 8 月の広島・長崎である。投下された原子爆弾の炸裂規模は TNT 換算で 15〜21 キロトン。爆心地付近では気温が 3,000 度以上に達し、半径 2 km 内の木造建築物は 100 %近くが倒壊・焼失した。核兵器は、それ以前の「量で拡大した暴力」を一足飛びに凌駕し、質的に異なる次元――文明の存続そのもの――を直接脅かす装置として現れたのである。
1.5 国際秩序と暴力の“再封じ込め”
1919 年に発足した国際連盟は「侵略」概念を明確化できず、大戦を防げなかった。1945 年創設の国際連合は、安全保障理事会に大国が拒否権をもつ現実主義的仕組みを採用しつつ、武力行使禁止(国連憲章第2条4項)を掲げた。だが核兵器の登場により、国際紛争のエスカレーション曲線は急峻さを増し、1950 年代以降の冷戦構造は、常に核戦争の臨界点を意識しながら拡大・縮小を繰り返した。
その危うい均衡を「抑止」という概念で説明したのがトーマス・シェリングやハーマン・カーンらである。彼らは、核兵器が〈使用されないまま〉でも政治的効力を持ち得る点――すなわち“被害に対する恐怖”こそが政策を規定する――を明快に示した。したがって 20 世紀後半から今日まで、暴力を巡る議論は、行使の可否だけでなく「行使前にいかに信頼性の高い脅威を構築し、戦争自体を思いとどまらせるか」という心理操作の領域へ大きく軸足を移したと言える。
2 「核」の登場が変えた世界観
2.1 数秒で街が消える――トリニティ実験から広島・長崎へ
1945年7月16日、アメリカ合衆国ニューメキシコ州の砂漠で行われたトリニティ実験は、人類史上はじめての核爆発だった。装薬はプルトニウム・インプロージョン型原子爆弾(コードネーム〈ガジェット〉)。出力はおよそTNT換算21キロトン――巨大な火の玉は半径数百メートルの地表をガラス質に変え、きのこ雲は上空12キロを超えた。
わずか3週間後の8月6日と9日、リトルボーイ(ウラン砲身型・広島)とファットマン(プルトニウム・長崎)が実戦使用された。広島では爆心地から半径2キロ圏で木造家屋の約90%が全焼・全壊し、当年中に推計14万人が死亡した。長崎の山地地形は被害を幾分散らしたが、それでも7万4千人前後が亡くなった。注目すべきは、投下機の搭乗員も爆弾の詳細構造を知らないまま「1発で戦争を終わらせる破壊力」を任されていた点である。核兵器は誕生時から、理解の外にある力を政治判断に委ねるというジレンマを抱えていた。
2.2 「使わずに効く兵器」――核抑止のパラドックス
1946年、戦略思想家バーナード・ブローディは著書『絶対兵器』で「核兵器の主な軍事目的は使用を防ぐことにある」と述べた。従来兵器は敵の兵力・装備を削り、領土を奪い、最終的に降伏させることを目指した。だが核爆弾は1発で敵・味方双方の社会基盤を壊滅させかねず、勝者が得る戦果よりも損害のほうが大きい。
ここから「抑止(デタレンス)」の論理が生まれる。要点は三つ――①能力(実際に撃てる史実と技術)、②意思(必要なら撃つという政治的覚悟)、③信頼性(相手にそれを信じ込ませる仕組み)。1950年代後半、米ソは大陸間弾道ミサイル(ICBM)の実用化に奔走し、ひとたび発射されれば迎撃不能という“セカンドストライク能力”を競った。相手の先制攻撃で核戦力の大半を失っても、残存ミサイルで必ず報復できる――その確信が抑止を支えたのである。
しかし抑止はパズルのように脆い。誤認・誤作動・誤信号があれば、使うつもりのない核が発射される。1979年の米国NORADコンピューター誤警報、1983年のソ連オコ・システム誤信号、1995年のノルウェー観測ロケット誤探知など、ヒヤリとする事例は枚挙に暇がない。核抑止とは「撃たれないために持つ」と同時に「間違って撃たない保証を日々更新する」行為でもある。
2.3 技術競争が描いた冷戦の輪郭
核分裂爆弾に続き、1952年以降は水素を燃料に使う熱核(フュージョン)爆弾が登場した。理論上の出力上限がほぼ無制限で、1954年のビキニ環礁〈ブラボー〉実験はTNT換算15メガトン――広島型の約1,000倍――に達した。大気圏内試験の放射性降下物(フォールアウト)は太平洋全域へ拡散し、日本漁船「第五福竜丸」被曝事件を引き起こす。
狂騒的な開発競争は、やがて自制と折衝を促した。1963年に**部分的核実験禁止条約(PTBT)が成立し、大気圏・宇宙・水中での核爆発が禁止された。1968年の核不拡散条約(NPT)**は米・ソ・英・仏・中を「核兵器国」と定義し、他国の保有を抑える一方で“将来的な核軍縮交渉”を義務づけた。
とはいえ、技術は止まらない。①発射前に地下サイロからトレーラーへ移送する可搬式ICBM、②1基のミサイル先端に分離弾頭を複数載せるMIRV(多数個別再突入弾頭)、③海中に隠れる原子力潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)――これらが「報復能力の不可避性」を高め、抑止方程式に新しい項を追加した。
2.4 社会と文化の深層に沈む核
核時代の大衆文化は、不安と好奇心の間を揺れ動いた。1950年代の米国では学童向け民間防衛教材『ダック・アンド・カバー』が上映され、地下核シェルターが郊外住宅の広告に登場した。日本では『鉄腕アトム』(1963年アニメ化)が「原子力は平和利用できる」という未来像を示しつつ、同年の映画『ひばくしゃ』が被曝の現実を静かに告発した。
文学でもジョン・ハーシー『ヒロシマ』(1946)、大江健三郎『ヒロシマ・ノート』(1965)、スタニスワフ・レム『枯草熱』(1973)など、核の影をさまざまな視座で描く作品が現れた。音楽界ではボブ・ディラン「風に吹かれて」(1963)、坂本九「見上げてごらん夜の星を」(1963)が“核の時代を耐える祈り”として広く愛唱された。核兵器は物理的存在にとどまらず、日常の言語・映像・旋律に埋め込まれ、人間の想像力を変質させた。
2.5 いまも続く「臨界点」との共生
冷戦後、米露の保有弾頭数はピーク時の7割以上削減されたが、それでも世界に約1万2千発が残る(2024年末時点、ストックホルム国際平和研究所推計)。その多くが数分で発射できる高度警戒態勢に置かれている。さらに、サイバー攻撃・人工知能・極超音速滑空兵器といった新技術は、指揮統制システムの安定性を揺さぶる可能性が指摘される。
東アジアでは北朝鮮が短~中距離弾道ミサイルを連発し、推定小型弾頭の開発も進む。中東ではイランの濃縮活動再開が周辺国の「核ドミノ」を刺激しうる。欧州ではロシアがウクライナ侵攻のさなか“戦術核”使用を示唆し、NATOは抑止態勢を強化した。冷戦時代の二大国モデルは、多極化・不確実化した現実に置き換わりつつある。
核兵器をめぐる課題は、依然として「撃たせない」「誤って撃たない」の二重問題だ。条約や信頼醸成策だけでなく、社会心理・メディア環境・経済連携――あらゆる層でリスクを分散する多層防護が求められる。
3 入門書の射程――難解な専門用語をほどく
3.1 なぜ核戦略の語彙は複雑に見えるのか
核兵器は、物理学・軍事技術・外交交渉・心理学・国際法といった〈別々の学問の交差点〉で生まれた。たとえば「セカンドストライク能力」という言葉を例に取ると、
- 核物理学:どの程度の核出力を確保すれば報復が成立するか。
- 兵站学:弾頭と発射装置をどこに、いくつ分散配置すれば生残性が高まるか。
- 心理学:相手が「こちらを完全に無力化できない」と確信する閾値はどこか。
- 国際法:先制攻撃を自衛権と主張できる根拠はあるか。
これらが同時に絡むため、単語ひとつに多階層の意味が詰まる。さらに、米ソ冷戦期の軍事専門誌や国防総省報告書、ケンブリッジやランド研究所の英語論文が初出となる概念が多く、日本語には〈完全な対訳〉がないことも混乱を招く。結果として「耳慣れぬカタカナ+漢字」や、アルファベット略語が飛び交う“用語の密林”ができあがった。
3.2 抑止とエスカレーションを読み解くキーワード
核戦略の中心にあるのは、敵に“攻撃すれば自分も壊滅する”と悟らせて戦争を防ぐ**抑止(Deterrence)**の概念である。ここでは、最低限押さえておきたい四つのキーワードを整理する。
- 相互確証破壊(MAD: Mutual Assured Destruction)
- 米国STRATCOM(戦略軍)の計算では、1980年代ピーク時点で米ソが同時に都市攻撃を行えば、それぞれ国民の3〜4割が即死し、医療・物流・電力網が完全麻痺すると推定された。
- ポイントは「能力を温存しすぎれば抑止力が低下し、増やしすぎれば財政と危機管理が破綻する」トレードオフを常に伴うこと。
- ファーストストライク/セカンドストライク
- ファーストストライクは相手の核戦力を先に叩き、報復を不可能にする奇襲。
- セカンドストライクは奇襲後も残存する報復力。潜水艦搭載SLBMや移動式ICBMはここを担当する。
- カウンターバリュー vs. カウンターフォース
- バリュー(価値)攻撃:首都・工業地帯など人口密集地を狙う。心理的衝撃は大きいが倫理的批判が強い。
- フォース(戦力)攻撃:相手のサイロ、潜水艦基地、指揮中枢など軍事目標を潰す。精密誘導と核弾頭小型化が進むと選択肢が増えるが、敵が「都市も狙われる」と勘違いすれば全面戦争に飛び火するリスクがある。
- エスカレーション・ラダー(Escalation Ladder)
- RAND研究所のハーマン・カーンが考案。「外交抗議」「経済制裁」から「限定的戦術核使用」「文明破壊的全面核戦争」まで44段階のステップを想定。実戦でも2001年の印パ危機や2022年以降のウクライナ戦争で、双方がどの段階に立っているかが日々議論された。