カビは世界を救う? — 見えない菌たちの壮大なる働き
公開日: 2025-05-08
¥150(税抜き)
税込み: ¥165
内容紹介
冷蔵庫の隅でひっそりと広がるカビ。その姿は私たちの目に「腐敗」と映りがちですが、顕微鏡の向こうに広がる世界では、彼らこそが地球を動かしてきた隠れた主役――そして、これからの文明を救うかもしれない革命家です。 『カビは世界を救う? — 見えない菌たちの壮大なる働き』は、糸状菌や酵母といった真菌たちが〈分解〉と〈再生〉を回しながら、生命史の幕開けから現在のサーキュラーエコノミーまで、途切れることなく環境をデザインしてきた全貌を描きます。発酵食品の芳香も、ペニシリンの奇跡も、バイオプラスチックや宇宙船の命綱までも――すべてはカビが産み出す“化学兵器”と“構築技術”の応用形。森林土壌で炭素を閉じ込め、メタンを食べ、プラスチックを還元し、極限環境や宇宙にまで根を張るそのタフネスは、人間中心のテクノロジー観を静かに揺さぶります。 本書は、35億年を遡る進化のドラマから、最前線の合成生物学・AI創薬・マイセリウム建材、さらには信仰・芸術・SFに芽吹く“胞子的想像力”までをノンストップで横断。気候危機・食糧問題・資源循環といった地球規模の課題を、カビの視点で読み替えることで、「分解こそ創造」という逆転の発想を提示します。読めば、キッチンや森の土、都市インフラ、そして未来の火星基地までがひと続きの“真菌ネットワーク”で結ばれていることに気づくでしょう。 未知を怖れ、排除するのではなく、見えない菌たちと“共創”する文明へ――本書は、そのための科学知と想像力を授ける招待状です。
本文サンプル
序章 “見えないヒーロー”への招待
1 ある日、冷蔵庫で起きていたこと
平日の夜、あなたが仕事帰りに冷蔵庫を開けたと想像してほしい。数日前に買ったはずのイチゴのパックは、うっすら白い綿のようなものに包まれ、柔らかな甘い香りにかき消されるように、酸味とも腐臭ともつかない匂いを放っている――そこに繁殖しているのは、ボトリティス属の糸状菌、いわゆる「灰色カビ」だ。
私たちはその瞬間、たいてい眉をひそめてパックごとゴミ箱に放り込み、翌朝にはもう忘れている。だが、あのわずかな時間のうちに、カビはイチゴ内部に潜む糖や有機酸を酵素で分解し、新たな胞子を飛ばし、次なる生存圏を探すべく着々と準備していた。つまり、冷蔵庫という密閉空間でさえ、多様な微生物が呼吸し、発酵し、死んでいく“小宇宙”なのだ。
カビを「不快な雑菌」とだけ見なすなら、私たちと真菌界との関係は進展しない。だが、灰色カビが放つエステルやアルコールの一部は、実はフルーツの芳香成分と同類であり、発酵食品の複雑なアロマに欠かせない物質と同じ経路で生成されることが分かっている。もしイチゴが腐らず、ワインもチーズも存在しない世界を想像してみれば、カビが私たちの味覚や文化にどれほど深く浸透しているかが見えてくるはずだ。
2 私たちの無意識下にいるカビ
都会のマンションの室内空気1立方メートルには、平均して数十個の真菌胞子が浮遊している。木造住宅や湿度の高い梅雨時には、その数が桁違いに跳ね上がる。呼吸のたびに私たちは、目に見えない胞子を肺へと取り込み、免疫系の「通関手続き」を経て体外へ追い出している。そのプロセスを私たち自身が自覚することはめったにない。
一方、腸管や皮膚の常在菌叢(マイクロバイオーム)には、カンジダ属やマラセチア属といった酵母型真菌が居住者として定住している。彼らは腸内で炭水化物を分解し、ビタミンを生成し、時に有害菌の増殖を抑える。皮膚表面では皮脂を資化して保湿成分を作り、角質バリアを補強する。つまり、私たちは真菌と恒常的な“相部屋”生活を送っているのだ。
しかし、免疫が弱ったとき、あるいは抗生物質の乱用でバクテリアの“警備隊”が減ったとき、常在真菌は暴走し感染症を引き起こす。善玉と悪玉が表裏一体であるというパラドックスは、カビと共生する以上、誰もが受け入れなければならない現実である。
3 なぜ今、カビを語るのか──環境危機とバイオエコノミー
地球規模での温暖化、プラスチック汚染、化石燃料依存――これらの課題を前に、各国は「炭素循環型社会」への転換を急いでいる。そこで脚光を浴びているのが、微生物の代謝力を産業に組み込むバイオエコノミーであり、その中心プレーヤーこそ真菌だ。
たとえば、白色腐朽菌が持つリグニン分解酵素は、木材や農業残渣をバイオエタノールに変換する際のボトルネックを解消する。アスペルギルス属は有機酸を大量合成し、バイオプラスチックや食品添加物の原料になる。マイセリウム(菌糸体)素材は、動物皮革に代わるサステナブルなテキスタイルとして実用化が進む。
さらに、気候モデル研究では、土壌真菌が炭素の“保管庫”として機能していることが定量化され始め、森林保全政策に真菌パラメータを組み込む動きもある。つまり、カビは単なる“家庭の敵”でも“発酵の友”でもなく、気候変動緩和から資源循環まで、21世紀の社会基盤を支えるキーストーン生物になりつつあるのだ。
4 本書の狙いと読み方
本書は、カビを「世界を救うかもしれない見えないヒーロー」として紹介する一方、その毒性や感染症リスクといった暗部も包み隠さず描く。理科室の顕微鏡で観察するミクロの世界と、地球規模のマクロな循環システムを往復しながら、真菌の多面性を立体的に理解してほしい。
各章は〈基礎科学〉→〈歴史・文化〉→〈産業応用〉→〈リスクと倫理〉という循環構造で構成した。これは、カビを語るときに必要な「生命・社会・技術」が三位一体で絡み合う構図を反映している。専門用語にはできるだけ平易な言い換えや図解を付し、巻末に用語集も添えた。
読者に求めるのは、身近なカビへの偏見を一度脇に置き、「腐敗」と「発酵」の境界線を揺さぶる視点を持つことだ。そのとき、冷蔵庫の奥で起こる白カビの攻防戦と、地下深くで化石燃料を分解する真菌の営みが、一本の線でつながって見えてくるだろう。